新 國 姓

にいくにせい

新國(にっくに・にいくに)氏の名前がこの地方の古い文献に出るのは、文正元年(1466)会津芦名氏の部将として、安積(あさか)郡中地、小倉(おぐら)城主(現郡山市湖南町)に任ぜられた新國信濃守棟菫が初めてである。

この頃の会津地方は、宗祖親鸞の面授門弟である、無為子やその門弟たちによる「太子宗」がひろめられており、その教義の広がりは中通り地方にまで及んでいた。聖徳太子信仰は、親鸞の六角堂夢告として、また太子和讃に見られるように、初期真宗教団においては聖徳太子が本尊視されるほどであった。

芦名盛高の子浄顕が、会津黒川城(現鶴ヶ城)城下に極楽寺を創建、また周辺に専福寺、本光寺、満福寺など数多くの寺院が建立されていることから、家臣や一般庶民の中に太子宗が深く浸透していたことがうかがえる。

新國信濃守棟菫も、会津芦名氏の武将であったため太子宗に帰依し、親鸞の教え、阿弥陀如来信仰を深めた。

2代目小倉城主となった、新國和泉守棟頼は地域の人々の信仰のより所として、横沢(郡山市湖南町)に本願寺3世覚如上人の弟子玄栄の創建と伝わる太賀山太子寺を再興した。

この太子寺は、新國氏の庇護のもとに西信-教了-全栄と存続するが、新國信濃守幸頼の代にいたり、永禄4年(1561)岩瀬長沼城に移封されると、全栄も長沼に移り本念寺と改め、さらに勝誓寺を建立し浄土真宗の梵宮とした。勝誓寺は後、須賀川(福島県須賀川市)に移る。

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