圓壽寺のあゆみ
えんじゅじのあゆみ
圓壽寺の開基は、慶長18年(1613)7月25日で、新國西念が創建して以来代々法灯を継承して現在に至っている。
寺祖新國西念は岩瀬郡長沼城主(福島県岩瀬郡長沼町)新國上総介頼基(貞通)の嫡孫として出生、幼名を竹丸といった。
父新國伝吾基親は竹丸が8歳のとき、天正18年(1590)11月「九戸の乱」に蒲生氏郷の武将として出陣、姉帯(岩手県二戸郡一戸町)の戦で壮烈な戦死を遂げた。
竹丸は、長沼城主として政治を執るにはあまりに幼かったので、叔父新國吉親が後見人として治めたが蒲生氏郷の会津支配により長沼を去り、一族を率いて現会津美里町尾岐窪の地に移された。
戦国の世の空しさや、戦ごとに悲しむ一族、家臣の姿に無情を感じた竹丸は、菩提寺の長沼(岩瀬郡長沼町)本念寺住職繹西誉のすすめもあって、西誉と、老臣であり傳役の遠藤対馬を伴い上洛、本願寺12世准如上人の手により得度、繹西念の法名をいただき僧侶となった。
京都室町において准如上人の膝下で勉学に励むこと14年、師の許しを得て、遠藤対馬の息子次郎右衛門を同道し奥州安積郡日出山(福島県郡山市安積町日出山)の地に入った。ここ安積郡内には新國氏の旧臣たちの土着、帰農も数多かったためである。
その後に、西念は小原田村字古寺(現在地)にある無住の草庵(威光庵)を浄土真宗の聞法の場とし、威光山長福寺を興した。
山号を樂永山と改めたのは、豊臣秀吉が小田原北条氏を征服、奥州仕置のため会津黒川に向う途中の天正18年8月長沼に宿泊の折、城主新國上総介頼基が城内上郭巽に新殿を造営してもてなしたところ、秀吉は非常に喜び早速筆をとって「樂永閣」と名付けられた由緒によるものである。
その後、5世住職空心の代に、8代将軍吉宗の嫡子が長福丸(9代家重)と名付けられたため、享保元年(1716)7月7日、長福寺から圓壽寺と改めた。
「圓壽」とは空心が慈母の広大な恩に報いようと、その法名繹圓壽からいただいたものである。